RELAX

昨日ホテルをお世話になった自動車修理工場へ挨拶へ。
スタッフのおっちゃんが「ごはん食べたか?」と食堂へ連れていってくれた。
「どれが食べたい?」
「うーんと・・・あ、あのお姉さんが食べてるやつ」
「よし、チラキレスだな。ここにひとつな!俺は仕事があるから。ゆっくりしてくるんだぞ!」
とお金を支払い、笑顔で手を振って工場へ戻っていった。
おっちゃんかっこよすぎるよ。

ご飯を食べてテーブルに地図を広げてにらめっこ。さあどっちに行こうか。海か山か。
なんてやっていたら、昨日ここを紹介してくれたメキシコシティのOMARとHOMEROとの
グループからチャットが入る。
「ベストはOXACAを通るルートかな」
よし決めた。(こんなことで決めていたりする。インスピレーションとしておこう。)

ルートが決まるとスッキリ。食堂のお姉さんたちに笑顔で別れを告げて、工場へ。
お礼にみんなに折り紙の鶴をプレゼントして(パソコンのディスプレイの上に乗っけて喜んでもらえた)
お礼を伝えて出発。さあ今日も走ろうか。

昨日夜ずっと雨が降っていたこともあってか、今日も雲は広がるがスッと抜ける青が美しい。
相変わらず、市街地を抜けるまでは渋滞に、排気ガスに、僕が走る路肩は客を拾う乗合バスが
客が待っている場所を通るたびに平気で路肩に寄せてくるので気を抜けない。
だいたいいつも、あーもーやだなーとなるくらいに一気に視界が開け、市街地を抜けたことを知る。

国道150号はさながら高速道路のようだ。ただ問題は路肩がほとんどないのではみ出せない。
ただ制限速度は70kmとそんなに速くなく、メキシコは結構無法地帯のような感じでみんな運転しているので、
その分だけ臨機応変で運転がうまい。だからしっかり意思表示さえすればいける感じがする。
道路のマンホールがそのままあいていたり、冠水しているところを避けたりスリリングなサイクリング。
まあ、まだカラダもしっかりできていないし、のんびり行こうか。

次の町まで距離があるので今日は80kmちょいで切り上げることにした。
前回の反省も生かして、宿をとれるときはなるべく取るようにしようと思う。
最初の宿でちょっとまけてもらって(250ペソ=1700円程度)そのままチェックイン。
(結構大きな町の方が、かえって安い宿がある気がするな。小さな町は選択肢がないので言い値になる。)

シャワーを浴びて、カメラを提げて町歩き。商店街を抜けたら丘が見えたのでそのまま登った。
丘の上のひっそりとした教会。僕も静かに中に入りベンチに座る。最前列でお祈りする大家族。
そのちょっと後ろには両手をベンチに広げて居眠りするおじさん。僕の右手のベンチに座る女性は
立ち上がるときに涙を拭いていた。

メキシコに来てから、教会ではこのようにさまざまな姿を目にする。
宗教というより、信仰。何かを信じる心。それがそのひとの心の指針となるなら素晴らしいものだと思う。
他を、違いを認めることさえ失わなければ。
どうしても宗教観の薄れた僕たちには、宗教とは少し視野の狭い、意識をそれに縛られてしまうような
感覚で見ている人が多い気がする。それは争いが、宗教が元だというものが多いからだろうか。
これを書きながら、日本を出る前にお会いした、ずっとお会いしたかったお坊さんの言葉を思い出した。

「私は宗教家として世界の会合によく出席します。イスラム教も、キリスト教も現在世界で活躍する
宗教家の若手はこう言います。お互いを認めましょう。世界はひとつ。と」

「宗教はどうしても形骸化してしまいます。教祖こそが最高で、その教えはどんなことがあっても絶対だ。
しかし、社会や時代は変わります。その教えをはじめた教祖は果たして自分が何千年も崇められることを
望んでいたのでしょうか。私はそうは思いません。彼らはその時代の人に道を示したかったのでしょう。」

「私は宗教が対立を生んでいるとは思いません。宗教の、人々の信仰心を利用したい人たちが、それらを利用
して対立を生み出そうとしているのだと。」

少し僕自身の解釈も入ってしまっているかもしれないけど、そのお坊さんはこれらの言葉をくださった。
僕にとっては、とても心強い言葉として、それから僕の心に寄り添ってくれている。
すっかり話がズレてしまったけれど、ブログは気のままに心のままに書き留めていきたい。
心は動くものだし、流れるものだ。

そんな風に町を歩いて、夕方はホテルの屋根に登ってコーヒーを淹れて、通りの人には見つかって、
何してるん?なんて声をかけられたりして過ごした。